1989-05-17 第114回国会 参議院 予算委員会 第11号
私自身、その後失脚されましたけれども朝総連の最高幹部の方とお会いをいたしまして、初めていわゆる北朝鮮に対する墓参、したがって受け入れの再入国の問題は、当時の外務大臣は椎名悦三郎先生、法務大臣は石井光次郎先生でございましたが、私が調整役をさせられましたので、初めて墓参をこちらが認めることにしたわけです。そのときにもう、今、柳澤さんがおっしゃった気持ちが私にもあったわけです。
私自身、その後失脚されましたけれども朝総連の最高幹部の方とお会いをいたしまして、初めていわゆる北朝鮮に対する墓参、したがって受け入れの再入国の問題は、当時の外務大臣は椎名悦三郎先生、法務大臣は石井光次郎先生でございましたが、私が調整役をさせられましたので、初めて墓参をこちらが認めることにしたわけです。そのときにもう、今、柳澤さんがおっしゃった気持ちが私にもあったわけです。
それで、私は当時石橋湛山先生に非常なあこがれを抱いておりまして、総裁選挙において、本来私の立場からいえば石井光次郎先生の応援をしなければならぬ立場であったかもしれませんけれども、私は石田博英さんらとともに一生懸命に石橋湛山先生の応援をして、そして湛山先生が内閣総理大臣として晴れて昭和三十二年の一月四日に神宮参拝をされたとき、その御案内役をいたしたことでございました。
それから委員に相なっておりますのは、国策研究会の矢次君でありますとか、あるいは石井光次郎先生でありますとか、その程度の、もう一名は木内信胤さん等々と評論家も入っておりますが、四、五名が常任委員をいたしております。
そのときは、東京におられる遺族の知り合いである自民党の濱野先生を紹介人にお願いいたしまして、当時石井光次郎先生が議長だったかと思いますが、提出したのでございます。
また、私どもは理事長の石井光次郎先生をはじめとして委員会の方々とも、この問題についてもちろん御連絡を申し上げておりますし、理事長の石井大臣をはじめとして本協会の発展には非常な熱意を持っておられると、このように承知いたしております。
○後宮政府委員 御承知のとおり、石井光次郎先生を会長として昨年発足いたしました団体でございまして、当初は主として東南アジアから日本に参ります留学生のめんどうを見ることを主眼としておったのでございますが、その後一般的な援助等にも参加できるように定款の改正をいたしまして、広く文化、それから社会事業的な援助等をやる団体になっております。